第11回 「貸しにしておきますよ。」

何らかの事情で口から食べ物が食べられなくなってしまった患者さんに、点滴で栄養補給することが良くあります。このような場合、普通の点滴のように腕の血管から入れようとしても、濃い糖分や脂肪分は、静脈炎を起こしてしまうのでできません。また、静脈炎を起こさない程度の薄い濃度にしてしまうと、今度は水分量が多すぎてしまって、患者さんに負担をかけてしまうことになりがちです。

そこで、心臓の近くの太い静脈までカテーテルを通し、そこから高い濃度の糖分や脂肪分の輸液を行って栄養補給をするのが、中心静脈栄養という方法です。

研修医は、先輩の先生方の指導のもとで、中心静脈栄養用のカテーテルを鎖骨の下や首、ときには足の付け根の太い静脈から入れます。このときに使用する針は、ボールペンの芯ぐらいの太い針です。特に、鎖骨のすぐ下や首からアプローチするときには、肺や近くを走る動脈を誤って穿刺してしまう危険性があるので、いつも慎重に行わなくてはなりません。

駆け出しの研修医のころ、病棟のVIP室(個室の一部が当時こう呼ばれていました)に、財閥系商社の重役だったというSさんが入院していました。胃癌の末期で、手術はしたものの縫合した皮膚の一部が充分に癒合せず、本人曰く「おへそが二つになっちゃったよ。」という状態で、感染をおこしやすくなっていました。

病状は次第に進み、吐き気も強くて食事がとれなくなってしまったため、中心静脈栄養を始めることになりました。横になると特に気持ちが悪いとおっしゃるので、仕方なく半分起き上がったような状態で首の付け根からアプローチすることになりました。

局所麻酔用の針ではうまく静脈にあたったのですが、肝心のカテーテルを入れるための太めの針を挿入したところ・・・肺を刺してしまいました!
すぐに針を抜いてカテーテル挿入を中止。呼吸が少し苦しくなってきたので、大急ぎでレントゲンを撮影したところ、やっぱり気胸になっていました。破れた肺から空気が漏れて肺の入っている胸腔のなかに溜まり、逃げ場が無いので溜まるばかりで肺を圧迫してきているのです。

こうなると、逃げ場となる穴を開けて胸腔内に溜まった空気を吸い出すしかありません。Sさんに状況を説明し、右の肋骨の間から今度はボールペン本体くらいの太さのチューブを入れて、空気を追い出すシステムをとりつけました。

やっと落ち着き、もう一度撮ったX線写真で胸腔内のカテーテルが適切な位置にあることを確認してから、SさんのいるVIP室をひとりで訪ねました。
部屋に入ってSさんのお顔を見て、あらためてお詫びを言っている途中で言葉がとぎれ、涙がこぼれてきました。

「申し訳ありませんでした…。」
何度も言う私の肩にやせこけた手をすーっと伸ばしてぽんぽんとたたきながら、Sさんは、
「これは、貸しにしておきますよ。」とおっしゃいました。
涙がますますこぼれてきて、蚊の鳴くような声で「はい。」というのが精一杯でした。

それからは、破れた部分がうまく閉じてくれるかどうか数日経過観察となりました。ところが翌日、Sさんの胸部、チューブが出てきている部分の皮膚が膨らみ始めました。少し圧迫しながら膨らんだ部分を触ると、ちょうど積もった雪の上を押すような感じがします。空気を追い出すためのチューブを皮膚にきつく固定してしまったせいか、空気が皮下にも進入する「皮下気腫」という状態が起こったのです。

次第にSさんの身体は空気が入って上半身だけむくむくと膨れてきました。この間まで肋骨が浮き出ていた胸が見違えるようにピンと張っています。でも、手を当てるとぺこぺこと凹んでしまいます。「皮下気腫」という状態は、特殊な場合を除き命に別状はありませんが、またまた平謝りをする私にむかって、Sさんは、
「うーん。ヘラクレスみたいだなあ。昔に戻ったみたいで悪い気はしないよ。」
と冗談めかして言ってくださいました。確かに、お部屋に飾ってあるお写真には、ヨットハーバーで撮ったのでしょうか、精悍で真っ黒に日焼けした筋骨たくましいSさんと美しい奥様がにっこり笑って写っています。

Sさんは、この状況を乗り切り、今度は無事に中心静脈用のカテーテルも入り、また闘病生活をしながら、最期までかっこ良い姿を私たちに示してくださいました。

それから約10年後、私は米国ユタ州にあるBDの工場を訪れていました。カテーテルなどを作っている工場です。新しい製品のプロトタイプを作っているという部屋の一角に小さな「イカ」が落ちていました。何ですかこれは?と拾い上げたところ、本当にイカのような、少し硬めのゼリーのような肌触りと質感を持っています。

「このイカみたいなのは何ですか?」
「ああ、それは今開発中の“ピック”ですよ。」
「“ピック”? 何ですかそれは?」
「PICC (Peripherally Inserted Central-venous Catheter)*。末梢から挿入する中心静脈栄養用のカテーテルです。そこはちょうど挿入部に固定する部分で、小児用です。確かにイカみたいですね。」(なるほど、小児科では肘の静脈から中心静脈にカテーテルを入れていた。あれをPICCと言うのか。そういえば小児科経由で入院したあの患者さんにも、入っていたっけ!)
「大人用もあるんですか?」
「ええ、ありますよ。在宅療法の患者さんに主に使われていて、ちゃんと管理すれば1年以上もちますよ。末梢から入れられるので、看護師さんが挿入できるんです。」
「日本では売っていますか?」
「まだだったと思いますが…。」

このような中心静脈カテーテルならば、太い動脈や肺の近くから挿入する必要がないので、挿入時に太い動脈を傷つけて大出血を起こしたり、肺を傷つけて気胸を起こしたりすることは100%ありません。日本の医療現場に一刻も早く届けたいという気持ちになりました。

日本に帰ってきて担当者に聞いてみると、成人用のものは承認をとっているとのことでしたが、まだ販売していないとのことでした。中心静脈カテーテルを長く留置しておかねばならず、挿入時のトラブルが命取りになりかねない患者さんを多く診ている科といえば、血液内科です。ためしに血液内科の仲間に紹介してみると、皆使いたいと言ってくれました。

発売後も、長く中心静脈栄養をする必要のある患者さんのいる内科病棟を中心に、数多く購入してもらっているようです。実際、挿入を経験した白血病の患者さんから、「大変良いので次回の化学療法時にもまた是非使いたい。自分が直接購入して主治医に確実にそれを使ってもらうことはできないか?」といったご相談をうけるなど、高い評価をいただくこともできました。

末梢から挿入する中心静脈カテーテルを紹介することで、それまでに行われていた危険性を伴う手技を、より安全なものにできたのではないかと思っています。Sさんにも、少しは「貸し」が返せたでしょうか。
*注 現在使用されている数種のPICC (Peripherally Inserted Central-venous Catheter:末梢から挿入する中心静脈カテーテル)には、素材や特性によりそれぞれ利点・欠点があり、患者さんの必要性に応じて使い分けられています。

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