第22回 念のための採血

「足の湿疹がなかなか治らないので連れて来ました。」
Nさんは、80歳代後半のおばあちゃまです。かいがいしく世話をする息子さんが連れて来ました。診察中、Nさんご本人は、自分からはあまり話をせず、車いすに座ったまま、ずっと下を向いていらっしゃいます。少し認知症もあるようでしたが、「どこが痒いか見せていただけますか?」とお願いすると、すこし動作がゆっくりでしたが、すねを見せて下さいました。確かに、痒そうな湿疹と乾燥した肌がみられたので、皮脂欠乏性湿疹と診断しました。かかりつけの内科の先生が処方して下さったお薬では、ちょっと弱かったようです。

内科では、糖尿病や高血圧症をみていただいておられました。でも、「HbA1Cはどのくらいですか?」と伺っても、ご本人は反応無く、息子さんが、「6くらいかなあ」と答えられて、どうも要領を得ません。糖尿病がある場合、血糖値のコントロールが悪いと、足のちょっとした傷や皮膚炎から細菌が侵入して、軟部組織の感染症を起こしたり、血流感染症を起こしたりする可能性が出てきます。糖尿病が背景にある場合は、そうでない場合と比べて、より強い治療をしないと重症化しやすいのです。内科での血液検査結果も持参されなかったため、念のために、肝機能、腎機能と血糖値、HbA1cといった一般的な血液検査をしました。

2日後、皮膚の状態を見るために来院していただきました。皮膚の方は、軽快傾向にありました。このままなら、先日処方した外用薬で良くなっていきそうです。でも、血液検査の結果は…HbA1cは9台。糖尿病のコントロールは良くありません。そして、そのほかの結果もちょっと気になるところがありました。肝機能、腎機能に問題はありませんでしたが、白血球数がやや高く、なかでも好中球が80%近くとなっています。好中球とは、白血球の種類のひとつで、細菌感染症があると増加します。相対的に割合が高くなるので、白血球分画を調べると、普段の50%程度も増加しています。

おかしい。何かがありそうと思った時、
「ゴホン」Nさんが、咳をしました。痰のからまった咳です。
「あれ?今日はお咳をしていますね。この間は、無かったですよね。」
「そうなんです。昨日からちょっと咳が出始めたようで…。かぜでもひいたかなあ。」と息子さん。37度台の微熱もあります。
年齢の高い方は、何かあっても症状が出なかったり、軽かったりすることがあります。白血球数もあまり上がらないことがあります。まして、コントロールの悪い糖尿病が背景にあるとすると、何か起こっていても不思議ではありません。
「ちょっとお胸の音を聴かせて下さい。」と、聴診器をあててみると…右の肺でも左の肺でもブツブツと聞こえています。これは、肺炎だ!あわてて酸素飽和度を測ってみると、93%!?「すぐに、レントゲンを撮りましょう。」とお願いしました。胸部のレントゲン写真では左右の肺野にぼや~んとした影が、数か所あります。これは大変!重度の肺炎です。御高齢で合併症もあるし、重症なので、すぐに入院して全身管理をしないと、命取りです。災害時など、たくさんの患者さんが短時間に発生したとき、「トリアージ(※)」をして患者さんの治療の優先順位を決定します。この時に、酸素飽和度90%が、重度の呼吸不全に陥っているかどうかの目安になります。Nさんは、93%だったわけですから、危ないところでした。

頼りになるO病院に連絡し、入院の手配をして、救急車を手配している間、酸素マスクを使って酸素を吸入し始めていただきました。すると、すぐに末梢の酸素飽和度は97%まで上昇してきました。救急隊が到着する前、さっきまでぼんやりしていたNさんが、急にはっきりお話しするようになりました。
「わたし、どうなっちゃったんでしょう?」
「肺炎にかかってしまったようですので、入院して治しましょうね。」
「肺炎ですか…。」とNさん。
診察し始めた時、あまり反応が良くなかったのは、認知症のせいではなくて、末梢の酸素飽和度が下がっていたためだったようです。息子さんに、
「Nさんがあまりお話ししなくなったり、動作がゆっくりとなったのは、つい最近のことですか?」と伺うと、
「そうなんです。以前はあんなじゃなかったのに。ぼんやりし始めたのは、一週間くらい前からかなあ…。」肺炎が進行し始めたのは、そのころなのでしょう。

救急隊がやってきて、ストレッチャーにうつしたり、酸素マスクを交換したりしていると、Nさんが、
「わたし、このまま死んじゃうんでしょうか?」と、涙を浮かべておっしゃいます。
「大丈夫。O病院で、先生方が待ってます。しばらく入院して、治療すれば治りますよ。」とお話ししました。看護師さんも手を握って、「大丈夫、大丈夫ですよ。」と、言ってくれました。
どうしても仕事に行かなくてはならない息子さんが、付き添えないので、なおさら心細かったのでしょう。看護師さんと一緒に、一生懸命励まして送りだしました。

一般外来では、患者さんをひとり5分程度で診察させていただかないと、多くの方に大変長い時間を待っていただかなくてはなりません。自然と、なるべく効率よく診察をしようと心がけています。でも、速く診察することだけに注力して皮膚症状だけみていたら、「念のための採血」をしておかなかったら、Nさんの肺炎にも気付かなかったかもしれません。合併症があったり、ふだん健診を受けていない方の「念のための採血」は、必要だなあと思いました。効率よく診察することと、ちょっとしたサインを見逃さずに追求していくことのバランスをうまくとれるように、これからも気をつけていこうと思いました。

※トリアージ:大事故・災害などで同時に多数の患者が出た時に、手当ての緊急度に従って優先順をつけること

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