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感染制御の母 フローレンス・ナイチンゲール

先人たちの足跡
2005年11月発行
掲載内容は、情報誌「Ignazzo(イグナッソ)」発行時点の情報です。

ナイチンゲールは、近代的な看護理論と病院の衛生管理の指導・普及に多大な貢献をしました。当時の理論は、現在でも医療施設における感染制御の基礎となっています。また、彼女が体系化した看護教育はイギリスから世界各地に広がりました。
 ナイチンゲールは、1820年に父ウイリアムス・エドワード・ショアと母フランシース・スミスの次女として、両親の新婚旅行中に生まれました。今の日本では新婚旅行中に子供が生まれたなどと言ったら「そりゃまた随分早いですね!」ということになりますが、当時の貴族としてはごく普通のことで、姉のパーシノーブもこの新婚旅行中に生まれています。つまり、貴族の新婚旅行というものは非常に長かったのです。


 当時の上流階級では、女性にはあまり教育をおこなわず、早く結婚して夫に仕えていれば良いという風潮がありました。しかし、父ウイリアムスは姉妹に外国語をはじめ哲学、数学、天文学、経済学などの本格的な教育を受けさせました。ところが、ナイチンゲールは慈善訪問の際に接した貧しい農民たちの悲惨な生活を知り、奉仕する仕事に就きたいと考えるようになります。

ナイチンゲールの足跡(1)
 1853年、初めて看護に携わったナイチンゲールは、家柄と実力でいきなり看護監督、つまり現代的に表現すれば、総師長に着任します。そこで彼女は、優れた看護管理者として実積を示し、自ら範となるような看護管理を実現させました。

 続いて、彼女は看護管理者としてロンドンの病院に無給で就職します。数少ない理解者の父から生活費の援助を受けましたが、母や姉とは険悪になりました。当時のイギリスでは、看護婦は病人の世話をする単なる召使とされ、専門知識が必要ない職業と考えられていたのです。彼女は国内各地の病院の状況を調べ、専門教育を施した看護婦の必要性を訴えました。

 1854年、ナイチンゲールはクリミア戦争の後方基地のスワタリに向かいました。戦地の病院は極めて不衛生で、必要な物資が供給されていませんでした。さらに、現地の軍医長官は看護婦団の従軍を拒否したのです。そこで彼女は病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに注目し、便所掃除をはじめることによって病院内に入り込んでいきました。
  
困難な状況でしたが、味方がいないわけではありませんでした。ビクトリア女王が戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接女王に届けるよう命じたのです。看護婦団と傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となりました。彼女たちは病院の衛生環境を改善し、死亡率を下げてみせました。この時ナイチンゲールは、チームの取り組みを軍首脳部に納得させるために独自の統計グラフを使用しました。これは当時としては非常に独創的なもので、彼女は考案者として後に英国統計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。

ナイチンゲールの足跡(2)
『病院覚え書』では患者の回復を助ける病院建築として、200畳もの広さのワンルームを考案しました。ベッドごとに天井まで延びた3層の窓が1つある構造で、一番高い窓を常時開放しておけば、病室の空気はいつでも新鮮さを保てるように設計されていたのです。ベッドの高さやベッド間の距離についても理想的な計算値が述べられて、これらの設計は、聖トーマス病院をはじめ世界中の病院建築に取り込まれたということです。             (文責:日本BD 大川三郎)


注)本稿では、当時の時代背景に合わせて、看護婦という呼称を使用しています。