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コラム:天然痘対策に習う時

2014年8月発行
掲載内容は、情報誌「Ignazzo(イグナッソ)」発行時点の情報です。

 「天然痘」が根絶された現代、イグナッソ第4号でも取り上げた、エドワード・ジェンナー( 1749~1823年)を知っている人はどれくらいおられるだろうか。現在ではバイオテロのイメージが強い天然痘であるが、実際に生物兵器としての使用を伝えられる最初の例としては1755~1763年の、フレンチ・インディアン戦争でのイギリス軍が有名である。 
 天然痘による死亡の最古の例は、顔に痘痕 があることから紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世であるとされるが、非常に伝染力が強いので、死に至る疫病として紀元前より存在していたようだ。
 日本においても、奈良の大仏造営のきっかけのひとつが天然痘の流行であった。天然痘は6 世紀中頃、中国から朝鮮半島を経て九州に上陸、一世紀半ほど後の平城京において、政権を担当していた藤原四兄弟の命をわずか数か月の間に相次いで奪った。原因不明の疫病が猛威を振るい、政治的にも混乱した当時の人々が、大仏に助けを求めたとしても不思議ではない。
 その後も数度の大流行を重ね、天皇や将軍さえも感染からは逃れられなかった。東山天皇(1675~1710年)崩御の原因となり、江戸時代には徳川家光を始め、15名中6名の将軍が感染した。致死率の高い天然痘であるが、運よく助かったとしても痘痕は残る。伊達政宗は幼少時に感染して右目を失明、顔にも痘痕が残った。いわゆる「独眼竜」の異名は天然痘が原因である。
 幕末期では「松下村塾」を起こした吉田松陰や「米百俵」の逸話で有名な小林虎三郎も感染し、佐久間象山の門下生であった二人は、痘痕があったことで仲もよかったといわれている。
 日本における天然痘対策、つまり種痘の普及に尽力したのが緒方洪庵(1810 ~ 1863 年)をはじめとした蘭方医らである。自らも幼少時代に発症している洪庵は、のちに大阪の「適塾」創設に続いて、痘苗を導入した「除痘館」を開設し、西日本を中心に牛痘種痘法の普及に心血を注いだ。一方、江戸では伊東玄朴を中心に蘭方医らが神田に種痘所を開設し、幕府に公認されたことも相まって一躍種痘が広まった。この種痘所は西洋医学所と改称され、幾多の変遷を経て東京大学医学部に至っている。
 1980年に天然痘との戦いはついに終結し、今日では人々の記憶から消え去ろうとしている。しかし、新興、再興感染症の問題とともに、抗菌薬耐性菌も増加を続けている現状においては、国家の壁を越え、天然痘との戦いの歴史を再評価し、その成功体験を今こそ生かす時がきているといえるのかもしれない。

(文責:日本BD 瀬野 誠)