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梅澤 濱夫

先人たちの足跡
2015年3月発行
掲載内容は、情報誌「Ignazzo(イグナッソ)」発行時点の情報です。

抗生物質時代の一翼を担ったカナマイシンの発見者

足跡

1914年 医師梅澤純一の次男として福井県小浜市に生まれる
1933年 武蔵高校卒業
1937年 東京大学医学部卒業
1944年 東京大学伝染病研究所助教授
1945年 医学博士
1947年 国立予防衛生研究所抗生物質部長
1954年 東京大学応用微生物研究所教授
1957年 カナマイシン発見
1962年 財団法人微生物化学研究会微生物化学研究所所長
1963年 ブレオマイシン発見
1971年 レジオンドヌール勲章(フランス)を受賞
1977年 東京大学名誉教授
1986年 12月5日 心不全のため死去

戦時中、ペニシリンを単離し実用化に成功する

 現在、多種の耐性菌による深刻な感染症の問題から、初期の代表的な抗生物質ペニシリンを含むかつての抗生物質が見直されている。そもそも抗生物質の歴史はペニシリンの再発見と1943年の大量生産の成功を端緒に、ここから翌年のストレプトマイシンはじめクロラムフェニコール、テトラサイクリン等すぐれた抗生物質が続々と発見され、感染症治療のパラダイムシフトともいえるような抗生物質の時代が到来する。
 その一翼を担ったのが、今年で生誕100年を迎える梅澤濱夫である。梅澤濱夫の家は代々の医家であった。遠祖の梅澤良雲は天保10年生まれの医家で、米国人宣教医シモンズ(福沢諭吉の発疹チフスを治療した医師)に学び、外科医として名をなした。また、濱夫の祖父は有能な眼科医であったし、父の純一は東京大学医学部で生化学を学び、小浜病院長を務めるなどいずれもすぐれた医師であった。
 濱夫はその名が由来する福井県小浜市に大正3年に生まれたが、父純一が札幌鉄道病院院長に任命され、家族は大正12年、札幌に移った。その後、濱夫は東京に出て進学校の誉れ高い武蔵の中等部から武蔵高校に進む。ここで学問に対する関心が花開く。
恩師の玉虫文一教諭はベルリンでコロイド化学を学び、武蔵高校で化学と物理化学を教え、濱夫をその道に導いた。その後、濱夫は東京大学に進学したが、毎夕、武蔵校内の玉虫博士の根津化学研究所に通い詰め、研究の進め方やその精神を学んだ。
 昭和12年(1937)、東京大学医学部を卒業し、同大学の竹内教授の細菌学教室で細菌の取り扱いを身に付ける。その年、南シナでコレラが流行り、帰還兵のために設けられた下関の検疫所で半年間、毎日、千検体もの顕微鏡検査を続け、それが原因で濱夫の左目は右目より小さくなってしまう。
 2年後、習志野の陸軍病院に召集され、微生物の発育を阻止する土中の放線菌の研究に没頭する。昭和18年、ドイツの臨床雑誌が陸軍軍医学校に届き、そこに掲載されていた「微生物から得られた抗菌性物質」の翻訳を担当。そこには、1929年にフレミングがペニシリンを発見し、その12年後、フローリーとチェインが粗製ペニシリンの抽出に成功したことなどが記されていた。
 そして、当時、病床にあった英国のチャーチル首相がペニシリンで治癒したという報道(誤報)が医療界を駆け巡り、ペニシリンの効果が俄然注目を浴びたため、日本の陸軍軍医学校もその製造に本格的に乗り出した。
 濱夫はペニシリン委員会のメンバーに就任、開発に打ち込み、兄の梅澤純夫(後年、慶應義塾大学工学部教授)らの協力のもと上質のペニシリンの単離に成功する。昭和19年には生産会社等の多数の協力により実用化に成功し、多くの敗血症患者を救った。

カナマイシン発見で世界の注目を浴びる

 終戦後、濱夫は米国の抗生物質や生化学の研究所を視察。当時米国の研究施設は世界でも最先端にあった。しかし、1950年代になると、米国では大学から企業へと研究の場が移り、抗生物質では利益が上がらないとみるや、企業はたちまちその研究規模を縮小してしまう。一方、日本では政府が大学等の公的研究機関に新しい抗生物質を発見するよう要請し、濱夫の研究は継続されるのである。
 昭和27年頃から、濱夫は放線菌の抗生物質で抗酸菌の発育を阻止し、塩基性で毒性の少ない物質を探す研究を行う。そして、昭和30年、長野県の土壌からとれた放線菌からカナマイシンを発見する。当時、すでに耐性菌の問題が生じていたが、カナマイシンはこれら耐性ブドウ球菌、耐性グラム陰性菌、耐性結核菌等に効果を発揮し、市販されてその臨床的有効性が世界的注目を浴びることになった。
 また、濱夫の研究対象は抗がん剤にも及ぶ。最初の発見は昭和34年のフレオマイシンであったが、遅延性の腎毒性が認められ臨床応用は断念する。しかし、昭和38 年に共同研究者とともに、フレオマイシンに類似しているが腎毒性のない物質ブレオマイシンを発見する。
 DNAを切断する機序を持つこの物質が、扁平上皮がんによく効くことやホジキン肉腫に著効を示すことが他の研究者たちの協力で判明し、抗生物質によるがん抑制の仕組みを世に知らしめることになる。
 かくして、梅澤濱夫は世界的な抗生物質の発見から多くの同胞の命を救い、医学史に燦然と輝く足跡を残すことになる。

※業績に関しては、その詳細を梅澤濱夫記念館(東京都世田谷区玉川1-3-28 Tel : 03-3441-4173)で閲覧することができます(要予約)。

参考文献:梅沢浜夫著『抗生物質を求めて』文藝春秋
     小高健著『伝染病研究所』㈱学会出版センター