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北里柴三郎

先人たちの足跡
2011年12月
日本の細菌学の父。
偉大な業績を残しながら、幻に終わったノーベル賞受賞。

足跡

1853年1月29日、熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。
1871年熊本医学校に入学。オランダ人医師マンスフェルトに師事し、医学の道を志す
1874年東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学。「医の基本は予防にある」という信念を掲げ、予防医学を生涯の仕事にすると決意する。
1883年内務省衛生局に入局したのち、1886 年ドイツへ留学し、コッホに師事。
1889年ドイツ留学中に破傷風菌の純培養に成功。さらにその毒素に対する免疫抗体を発見し、それを応用した血清療法を確立した。
1892年ドイツより帰国。福沢諭吉らの協力により私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)を創立。
1894年ペストの原因調査のため派遣された香港でペスト菌を発見。
1914年私立北里研究所を創設。1917 年慶応大学医学部、1923 年日本医師会を創設し、幅広く教育・社会活動に従事。
1931年6 月13 日脳溢血のため死去(78 歳)。

細菌学者、指導者北里

 コッホの下で、独自に考案した嫌気性菌培養装置を用いて破傷風菌の純培養を成功させた北里は、「ドイツに残って研究を続けるように」との熱烈な誘いを断り帰国しました。帰国後創立した伝染病研究所をはじめ、広く教育・社会活動に従事する中で、多くの優秀な研究者を輩出しました。これら門下生のうち北里四天王といわれているのは、第二代医師会会長の北島多一、赤痢菌を発見した志賀潔、梅毒の特効薬サルヴァルサンを開発した秦佐八郎、寄生虫研究の宮島幹之助です。いずれも日本を代表する錚々たる細菌学者達で、北里の下で学び、感染症撲滅に尽力しました。
 創立した伝染病研究所が文部省所轄の帝国大学附置伝染病研究所となる際、反対した北里は辞表を提出しました。その時北里の下にいた北島多一や志賀潔ら研究員全員も同時に辞表を提出し、北里についてゆく意思を表明しました。研究の指導は厳しくても多くの門下生に心から慕われており、北里は正に頼れる懐深い親父(おやじ)だったことが分かります。

ノーベル賞と北里

 生涯、「感染症予防」に尽力し続けた北里柴三郎。彼の業績には枚挙に遑がありませんが、実はノーベル賞創設時、第一回ノーベル生理学・医学賞の候補者に北里が含まれていたことは、意外と知られていません。
 その事実は1988 年3月28日付の読売新聞で明らかとなっています。記事によれば、賞が創設された1901年からノーベル賞選考会での議事録は厳重に保管されており、受賞から50 年以上経過後、財団が特別に認める研究者にのみ公開されることになっています。第一回生理学・医学賞の候補は北里の他に、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見したR. コッホ、化学療法の開拓者P. エールリッヒ(秦佐八郎は共同研究者)、白血球の食菌作用を提唱したI.メチニコフ、尋常性狼瘡への光線治療法のN. フィンセン、マラリア研究のR. ロス、ジフテリア血清療法のE. ベーリングら46名で、細菌学を中心とした偉大な研究者が名を連ねていました。ノーベル生理学・医学賞部門の選考委員会があるカロリンスカ研究所での二次選考の結果15 名に絞り込まれ、その中にも北里の名前は含まれていました。選考委員会は、最終的にR. ロスとN. フィンセンの2 名をアカデミーに推薦しましたが、アカデミーは両名とも時期尚早と判断しました。
 驚くことにアカデミーは、二次選考15 名に漏れたベーリングを最終的に選出しました。ベーリングの受賞理由となったジフテリアの血清療法は、もともと北里が破傷風菌を使って開発した手法であり、対象論文も北里との共同執筆であったにもかかわらずベーリングの単独受賞となりました。ノーベル賞創設当時、ドイツ医学会が圧倒的な発言権を得ていたことや、共同受賞の概念がなかったことなどが推測されますが、ベーリングの受賞により北里の受賞の可能性は消えてしまったことになります。ノーベル賞は逃したものの、北里の業績が一世紀以上も前から国内のみならず海外の権威ある機関に認められていたことが明らかになり、日本人としては誇らしい限りです。

人間北里

 北里柴三郎を指導したコッホは10 歳年長で、北里がドイツに留学したときには、すでに世界的に有名でした。非常に熱心に研究に打ち込む北里とコッホの研究信念が重なり、二人は研究を通じて本当の親子のような関係を築き、1908 年にコッホ夫妻が来日した約2 ヶ月間は常に付き添い、熱烈に歓迎しました。1910 年敬愛するコッホが逝去したとの知らせにひどく落胆した北里は、伝染病研究所の角にコッホの遺髪を神体とした祠を建て深い哀悼の意を表しました。
 北里は仕事熱心である一方、子煩悩な一面も持ち合わせていたことはつとに有名でした。東京医学校卒業後すぐに結婚し、四男三女に恵まれました。海外出張の船旅中に家族へ送った手紙には、船旅は暇であること、兄弟喧嘩をせずに勉学に励めば、お土産を沢山持ち帰ると綴っています。この文面から、家では良きお父さんとして子供に接していた姿がうかがい知れます。


参考資料:北里柴三郎記念室資料
     「ノーベル賞 二十世紀の普遍言語」中公新書 矢野暢著
(文責:日本BD 川口恵子)