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パウル・エールリッヒ

先人たちの足跡
2022年12月発行
掲載内容は、情報誌「Ignazzo(イグナッソ)」発行時点の情報です。
1854~1915
ドイツの医学者。化学療法の創始者と言われ、特効薬(Magic Bullet)という概念(言葉)を初めて用いました。化学者、細菌学者、あるいは免疫学者として、数多くの論文と共に極めて多彩な功績を残しています。志賀潔や泰佐八郎が師事したことで、国内でも名が知られているパウル・エールリッヒは、1854年3月14日プロイセン王国ニーダーシュレジエンのシュトレーレン(現ポーランド ストシェリン)で、ユダヤ系ドイツ人の家庭に誕生しました。

研究の始まりと斬新な発想

 エールリッヒは、名門中学のマリア・マグダレネン・ギムナジウムに在学中、顕微鏡で組織の染色標本を観察して、その構造と美しさに魅了されました。この時の感動が、その後の研究のきっかけになったと言われています。大学時代から本格的な研究に没頭したエールリッヒは、細胞は概ね透明に近く、染色することによって内部構造を含め詳細な観察が可能になると考え、独自に多くの試薬を試し、組織に特異的な染色形式の数々を明らかにしました。その研究のなか、酸性・アルカリ性の染色試薬を用い白血球中の顆粒を染め分けることで、好酸球・好塩基球などの分類を行いました。
 さらに、赤血球に対しても研究・分類を行い、その前駆体も発見しました。これらの研究と発見は、現代医学における白血病を体系化するための基礎と、貧血の分類の基礎になっています。
 エールリッヒはまた、細菌の染色についても研究を行い、RobertKochが発見した結核菌を染色する方法を1882年に発表しました。
この方法は、後に細菌学者のFranz Ziehlと病理学者のFriendrichK.A.Neelsenによって修正され、現在も使用されている染色法(チール・ネルゼン染色)の基礎となりました。現在でも幅広く活用されているグラム染色の基礎も、この時代のエールリッヒによって考案されたものです。
 そして、これらの研究を行う中で、赤血球に感染したマラリア原虫を顕微鏡で観察する際に、染色に使用したメチレンブルーが赤血球は染めず、マラリアだけを染めることに気付きました。この発見から、ヒトの体内でも同様に病原微生物だけを特異的に染色し得ると考え、「色素が毒性を合わせ持てば対象の病原微生物のみを駆逐できるのではないか」との考えに至りました。この選択毒性の発想・概念こそが、後の化学療法の基礎となり、創始者と言われる所以となりました。

化学療法の幕開け

 1902年の秋にエールリッヒは、実験治療研究所に留学していた志賀潔と共に、選択毒性の概念を基として、色素を用いたトリパノソーマの化学療法剤探索研究プロジェクトを開始しました。その20ヵ月後、数百種類の色素を用いた実験から、トリパノソーマの治療に効果を発揮する1つの有機化合物を発見しました。この化合物は、ヒトが考えて合成し、安全に高等動物の病気治療に成功した最初のものとなり、トリパンロートと命名されました。この研究結果は、ベルリン臨床週報で発表され、この日(1904年3月28日)が、化学療法の幕開けとなりました。
 エールリッヒは、選択毒性の概念を、「寄生を受けている生物に影響がなく、寄生している生物のみを撃滅する薬剤」として、当時のドイツオペラ「魔弾の射手」(ウェーバー著作)から言葉を取り入れ、MagicBullet「魔弾」(悪魔に魂を売って得た百発百中の魔弾を指す)と呼ぶようになりました。そして、これが特効薬の概念となりました。
 しかし、トリパンロートで化学療法の扉を開き、世界初となる特効薬(Magic Bullet)を世に打ち出したものの、この色素は馬の疾患であるカーデラ(Caderas)の1種を除いて実用性はありませんでした。そこで、エールリッヒは次の研究と魔弾のターゲットとして、世界中で蔓延していた梅毒を取り上げることとしました。この研究を続ける中、1909年1月に、研究所に招かれていた秦佐八郎に対して、合成された無数の化合物を1つずつ動物実験により調べるよう指示しました。
 こうして秦による膨大な実験が始まり、1910年、ついに梅毒に有効な化学物質(製剤番号606号のジオキシ・ジアミド・アルゼノベンゾール)が発見されました。この化学物質はサルバルサンと命名され、医療の歴史で最初のヒトに対する合成化学療法薬品として、そして、梅毒の特効薬として、世界中の梅毒感染患者に福音をもたらしました。

免疫学の研究と偉大な業績

 エールリッヒは、免疫とそれに支配された法則の研究に対しても才能を発揮しました。
 当時、細菌が毒素を産生し、生物が防御のために抗毒素を産生することは知られていましたが、細菌の毒素のみならず、特定の植物毒でも同様の免疫反応が起こることを発見しました。また、新生児の免疫は母親に由来する母体内・胎盤を通した免疫であり、持続時間が短いことを実験的に実証し、さらに免疫を持つ母親から母乳を介して免疫が移行して抗毒素が授乳期間中に毒素に抵抗することを発見しました。これらの研究によって、免疫には能動型と受動型の2種類が存在することを明らかにするとともに、母乳育児の重要性を強調しました。
 免疫学の関わりにおいても、「抗血清は毒素を破壊するのではなく、毒素と抗毒素の等量的な結合である」として、抗血清の力価を赤血球溶血抑制反応等によって定量的に測定できることを発見しました。また、ジフテリア抗血清の開発の当事者であるvon Behringの要請を受けて、ジフテリア抗血清の精製と標準化を行うとともに、ジフテリア毒素には抗血清に対する力価に変動は認められないが、毒素の力価そのものは経時的に低下するという「Toxoid説」を提唱しました。
 また、病原体つまり抗原を免疫反応により除去する抗体が産生されるのは、白血球の表面に抗原の受け皿つまり受容体(レセプター)があり、これに抗原が結合すると、細胞が刺激されて抗体となるという「側鎖説」を発表しました。これら免疫学の貢献によって、エールリッヒは1908年ノーベル賞の医学・生理学賞を受賞しています。
 エールリッヒは、1915年8月(享年61歳)に脳卒中で亡くなりましたが、もしこれほど早くに死が訪れていなかったら、化学療法の創始という偉業に対して、秦佐八郎と共にノーベル賞を共同受賞していた可能性もありました。

(文責:日本BD)