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感染制御の父 イグナッツ・ゼンメルワイス

先人たちの足跡
2004年発行
掲載内容は、情報誌「Ignazzo(イグナッソ)」発行時点の情報です。

イグナッツ・フィリップ・ゼンメルワイス(Ignaz Philipp Semmelweis、1818.7.1生〜1865.8.13没)はハンガリー出身の医師で、「産褥熱は接触感染の病気であり、医療従事者に手の消毒を義務づけることでその発症率を激減させることができる」ことを証明して見せました。ゼンメルワイスがこのことを発見したのは1847年で、ウイーン産科病院の産婦人科部長だった時のことです。

医学者への道程

 ゼンメルワイスは1818年7月1日、裕福なドイツ系商人の第5番目の子供として、ブダ(ブダペスト)の商業地区タバンに生まれました。子供の頃はブダにあるカトリックの学校に学び、17才の時にはペスト大学に入学。19才で卒業しました。そして1837年秋、法科大学に入るためにウイーンを訪れますが、そこで彼は医学に興味を持ち医科大学に進学したのです。
 入学してから1年後に彼は帰国し、残りの勉強を地元の大学で行います(1839-1841)。そして1841年、再びウイーンに戻り、第二ウイーン医科大学に入学します。彼はこの時自らの出身校であるペスト大学の立ち遅れた状況を痛感しますが、この大学はその後、実験施設と医学を統合し、20世紀でもっとも重要な医学の拠点の一つとなりました。卒業後もウイーンに残り、2ヵ月の助産術講議を取り、マギスター(Magister)の学位を取得し、さらに外科技術の訓練を終えた後は、1844年10月から1846年2月の15ヵ月間、シュコダ教授のもとで診断法と統計学を学びました。その後、ウイーン総合病院第一産科クリニックの助手になり、そこで教育の仕事にも携わっています。

公衆衛生の重要性を発見

 ゼンメルワイスが産褥熱の原因について調べ始めたのは、ウイーン総合病院にいる時でした。しかしそこでは、産褥熱は予防不可能な病気であると信じる上司の反対にあいました。1846年7月、ゼンメルワイスは、第一産科クリニックの名目上の医科長になりました。その頃、第一クリニックの産褥熱による死亡率は13.10%でした。しかし当時、第二産科クリニックの死亡率はわずか2.03%だったのです。どちらのクリニックも同じ病院に属し、同じ技術を用いていましたが、そこで働く医療従事者だけが若干違っていました。第一クリニックでは主に医学生の教育を行い、1839年に完成した第二クリニックでは助産婦の指導を行っていたのです。
 彼に転機が訪れたのは1847年でした。親しくしていたKolletschkaが、死体解剖の授業中に過ってメスで指を切ってしまったことから感染症にかかり、死亡してしまったのです。彼の死体を解剖したところ、病気の原因は、産褥熱で死亡した女性患者と非常に似ていることがわかりました。そこで直ちに、死体による感染と産褥熱との関係を示唆し、両クリニックにおける死亡率の統計学的研究を始めたのです。その結果、彼が解剖室から出てきた医師や学生たちは、感染性の粒子を手に付着させたまま第一クリニックの患者を検診していることを突き止めました。ちなみに当時はまだ病原菌の存在は知られておらず、ゼンメルワイスは、まだ知られていない「死体粒子」が産褥熱を引き起こしていると考えたのです。そこで解剖室から検診に向かう医師たちに、さらし粉溶液で手を消毒することを義務づけ、それにより死亡率はそれまでの12.24%から2.38%へと激減し、第二クリニックとほぼ同様のレベルになったのです。

医学界の権威により否定

 こうした輝かしい結果にもかかわらず、ゼンメルワイスは自らの研究成果をウイーン医学界に報告するのを拒み、また論文として発表することにも消極的でした。そこでヘブラがゼンメルワイスに代わって2本の論文を書きました。それを読んだ外国の医師やウイーン学派の一部の人間は、この発見に大いに感銘を受けたのですが、幅広い支持は受けられませんでした。その研究結果が、当時の医学界の主流派の意見と真っ向から対立していたからです。当時、病気は(他にも様々な奇妙な原因がありましたが)、体の中の「基礎体液」のバランスが崩れることによって起こると信じられていたのです。さらに、仮にゼンメルワイスの発見が真実だとしても、彼のアドバイスにあるように、妊婦を診断する前に毎回手を洗うことは、面倒過ぎると反論されました。また医師たちも自分たちが多くの死を引き起こしていることを認めようとしませんでした。それどころか彼らは、自分たちの職業はきわめて神聖であり、したがって手が汚れているということはあり得ないと主張していたのです。
 1848年、ゼンメルワイスは消毒の範囲をさらに広げ、産婦に接触するすべての医療器具も消毒するよう命じました。その結果、産婦人科病棟から産褥熱はほぼ完全に撲滅されました。それを受けてシュコダは、その研究成果を調べるための公的な調査委員会の設立を計画しました。しかしながら、この提案は、大学側と政府機関との対立が原因で教育省によって拒否されてしまいます。以後、彼は保守的な政治勢力のもと失職し、1850年には自らの成功を発表しますが、突然ウィーンを去ってペスト(ブタベスト)に戻ってしまうのです。
 ハンガリーに戻ったゼンメルワイスは、1851年にペストにあるSt. Rochus病院の産婦人科病棟に勤めます。手と医療器具を洗浄するという彼の消毒法によって、同病院の産褥熱による死亡率は0.85%にまで下がり、この考え方は瞬く間にハンガリー国内に広がりました。また、この頃ゼンメルワイスは結婚し、5人の子を持つ親になり、大規模な個人医療施設を建てました。1855年7月には、ペスト大学理論及び実践助産術学科長に任命され、1857年にはチューリッヒの産科学科長になる話もありましたが、彼はそれは断りました。
 1861年、ゼンメルワイスは、自らの発見を「DieAetiologie,der Begriff und die Prophylaxis des Kindbettfiebers(産褥熱の病因、概念、及び予防法)」という本として上梓しました。しかし、国外での書評はどれも否定的なものばかりで、ゼンメルワイスはそうした批判に対し、1861年から1862年の公開書簡の中で、激しく反論しました。とくにドイツで開かれた医学系の学会では、彼の学説は講演者にことごとく否定されました。医学界の権威がゼンメルワイスの発見を認めなかったために、何千人もの若い妊婦が命を落としましたが、最終的には彼の学説の正しさは立証されました。このゼンメルワイスのケースは、権威主義的な学界により科学の発展が遅れた例として、現在も引用されています。

神経衰弱と死

 1865年7月、ゼンメルワイスは神経衰弱と思われる症状に苦しんでいました。現代の歴史研究家の中には、これはアルツハイマー病または老人性痴呆だと言う人もいます。ゼンメルワイスは、親族や友人によって半ば強制的にウイーンに連れていかれた後、Niederostereichische Landesirrenanstalt in Wien Doblingという精神病院に入院し、2週間後に帰らぬ人となったのです。これまでの説では、ゼンメルワイスは、敗血症が原因で死亡したと信じられてきました。敗血症は、汚染された指が原因で発症する産褥熱とよく似た症状を示す病気です。しかし、「Journalof Medical Biography」誌に発表されたH.O.ランカスターの論文によると、これは事実ではありません。
 “ゼンメルワイスに関してはこれまで数多くの伝記が書かれているが、1865年8月13日に彼がどのようにして死亡したかという点については、1979年、S. B. Nulandによって初めて明らかになった。精神状態が悪化してから数年後、ゼンメルワイスはウイーンにある精神病院に入れられた。そこで暴れ出した彼は、病院の職員による暴行を受ける。その時の傷がもとで2週間後に死亡したのだ。したがって死体解剖中に負った傷がもとで感染症にかかったというような、まるでギリシア悲劇のようなドラマチックな最期は、これで完全に否定されたわけである”
 ゼンメルワイスの死後、感染は病原菌によって起こることが発見されました。今では彼は、消毒法と院内感染予防のパイオニアとして認識されています。