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志賀 潔

先人達の足跡
2012年10月発行
掲載内容は、情報誌「Ignazzo(イグナッソ)」発行時点の情報です。

赤痢菌の発見者であり、化学療法の先駆者

足跡

1870年 12月18日、宮城県仙台市に生まれる。
1883年 母の生家志賀家の養子となり、名を潔と改める。志賀家は代々、仙台藩伊達家の藩医の家系であった。
1887年 東京へ遊学しドイツ語を学ぶ。1892 年東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学。
1896年 伝染病研究所に入り、北里柴三郎に師事。
1897年 赤痢菌に関する最初の研究を発表。
1901年 ドイツへ留学し、エールリッヒに師事。1904 年にはエールリッヒと共著で「トリパノゾーマの化学療法」を発表。
1911年 再び渡欧し、エールリッヒに師事。2 年間、結核の化学療法を研究。
1914年 伝染病研究所を北里柴三郎と共に辞め、翌年北里研究所開所にあたり、第一部長となる。
1920年 朝鮮総督府医院長として朝鮮に渡る。その後11 年間京城に留まり医学教育、医事行政に深く関わる。
1931年 帰国し、北里研究所顧問となる。75 歳まで同研究所で細菌学の研究を続ける。
1955年 1月25日、老衰のため死去(85歳)

赤痢菌の発見

赤痢菌写真
 明治30 年(1897 年)6月、関東を中心として全国的に赤痢が大流行しました。総患者数は9 万人とも言われ、死亡率は25%、より良い医療環境にあったと考えられる東京だけ見ても、死者は2000人を超えました。伝染病研究所に入りたての志賀潔は北里柴三郎から直接研究の手解きを受け、赤痢の病原体探索を指示されます。志賀はすぐに下宿を引き払い、研究室の片隅に自分の寝床を作り研究室に篭城する覚悟で取り組みました。患者から集まる検体の全てを培養、分離、染色、検鏡して網羅的に調べ、ようやくある桿菌が病原体らしいとの結果に行き着きますが、動物では感受性が異なるらしく赤痢様の症状を示しません。断定できない焦燥感にかられていたある日、図書館の新着図書でビダールの腸チフス血清凝集反応の論文を目にします。赤痢菌への応用をひらめいた志賀は早速条件検討を開始し、約1 ヶ月後にはある桿菌が赤痢患者の血清とのみ特異的に反応
を示す事を突き止めました。そして赤痢流行の兆しから半年後の12 月、日本細菌学雑誌第一号で赤痢菌発見の報告に至りました。1880 年代より結核、コレラ、腸チフスなどの重篤感染症の原因菌が次々明らかになる中、正体がつかめなかった赤痢の根本原因が志賀によってようやく判明しました。
 ところで、赤痢菌の正式名Shigella が志賀の名前に由来することは、つとに知られています

化学療法の先駆者

 留学先のドイツで師事したエールリッヒは、長年の構想である「病原体にのみ特異的に作用する物質を合成化学的に創出する」研究に着手しようとしていました。対象の病原体には、細菌より複雑な構造を持つため標的が多いことと、血清療法の効果が見込めないことが分かっていたトリパノゾーマが選ばれました。助手に抜擢された志賀は、忍耐と勤勉さをもって毎日何百というマウスの尾から血液を採取し続ける傍ら、500 以上のアニリン色素誘導体を試し、最初の有効薬が見つかるまでに1 年半近くを要しま
した。見つかった有効薬はトリパンロートと名づけられ、1904年の春にエールリッヒ、志賀の共著としてベルリン臨床週報十三、及び十四号で報告されました。報告の冒頭にエールリッヒは「志賀と私とは遂にトリパンロートを得ることができた」と述べましたが、それに対して志賀は「短時間の助手に過ぎない私の労をねぎらって下され、おのずから頭の下がる思いである」と後の回顧録に記載し、その姿勢にはエールリッヒへの尊敬の念と、謙虚な姿勢がうかがえます。

素顔

 志賀は自身の研究生活や恩師、仲間について多くの学術誌に寄稿しています。そしてそれらの中で、自身の研究生活は非常に幸運であったと述べています。赤痢菌の発見時の幸運として、まず北里柴三郎から直接指導を得られたこと、その当時赤痢は欧米では流行しておらず、特に発見した年は東京を中心に大流行していたこと。また、通常であれば赤痢の原因菌探索のテーマは先輩に行くのが順序でしたが、たまたまその先輩は留学する事が決まっており、志賀に指示がきたため発見することができた、先輩に指示が行っていたら間違いなく先輩が発見していただろうとも述べています。これらの幸運に加えて器用で粘り強く、研究する事が面白くてたまらなかったという探究心を持ち合わせていたことが、偉大な発見に繋がったのであろうと考えられます。
 赤痢菌の発見で良い思いをしたことがあるという思い出話をひとつ。インド南部の都市マイソールがまだマイソール王国だった頃、防疫施設の助言をするため国賓として志賀は招かれ、王宮に宿泊する事になりました。豪華でありながら瀟洒なつくりの寝室には、天蓋とレースの掛かったベッドが置かれていました。王様用のベッドに横になり悦に入った姿は普段の真面目な顔とは異なり、純粋に喜ぶ顔をしていたに違いありません。さて、研究者としての志賀は指導者にも恵まれ幸せであったかも知れませんが、最愛の妻に先立たれただけでなく、戦争で長男、そして三男を結核で失い、特に三男の死にあたっては忸怩たる思いがあったであろうことを容易に想像できます。

参考文献:「志賀 潔 或る細菌学者の回想」日本図書センター 志賀潔著
(文責:日本BD 川口恵子)