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天然痘ワクチンの開発者 エドワード・ジェンナー

先人たちの足跡
2006年10月発行
掲載内容は、情報誌「Ignazzo(イグナッソ)」発行時点の情報です。

エドワード・ジェンナーは、よくジョセフ・リスター、ロベルト・コッホ、ルイ・パスツールたちと並び称されます。人類に対するジェンナーの貢献は、天然痘ワクチンの開発です。
 エドワード・ジェンナーは、1749年5月17日に父・牧師ステファン・ジェンナーと母セアラ・ジェンナーの6番目の末っ子(兄2名、姉3名)としてイギリスのバークレイという小さな村で生まれました。どこまでも丘のつらなるこの一帯は、乳牛の放牧がさかんな酪農地帯です。

 1761年、12歳になったジェンナーはブリストルに近いソドバリーの開業医ダニエル・ラドロウに弟子入りして、9年間医学の勉強をしました。この間に自分の生涯をかけて取り組むことになった研究のきっかけとなる話を聞きました。たまたま、ラドロウ先生のところへ診察に来た農村の女の人が“私は前に牛痘にかかったので、天然痘にかかることはありません” と言ったのです。このときから、この言葉がジェンナーの心にとどまって離れることはありませんでした。

 古くからイギリスの酪農地帯では、牛の皮膚に痘疱が多数できる伝染病がたびたび流行しました。乳牛の乳房に多数の痘疱ができ、乳搾りの人の手がこの痘疱にふれると、手の傷から牛痘にかかり2−3週間後には瘡蓋となって治ってしまいました。ほとんどの乳搾りの人は牛痘にかかったことがあるので、天然痘にはかからなくてすむようになったのでは?ということです。


 1770年、21歳のときにロンドンに医学の修行に行き、外科医、植物学者として有名なジョン・ハンターの住み込みの弟子になりました。ジェンナーは当時の最も優れた先生のところで学ぶという幸運に恵まれたのです。ハンターの家で修行しているときにジェンナーは、牛痘のことについて何度も質問しました。それに対してハンターのアドバイスは“あまり考えることはやめて、とにかく実験してみることだ。辛抱づよく、そして正確にね” (Do not think,but try: be patient be accurate----)。このハンターの言葉は非常に有名になっています。

 1773年、24歳のときジェンナーは故郷のバークレイに帰って開業医として仕事をはじめました。牛痘種痘法の開発はここで行われました。

 “乳搾りの女性は決して天然痘にかからない”ジェンナーが注目したのは、乳搾りの女性は弱い天然痘—命を落とす危険がない牛痘—にはかかるけれど、天然痘自体にはかからないという事実です。牛痘にかかった人間は、手に水膨れができます。そのことからジェンナーは、水膨れの中の液体が、何らかの方法で病気になるのを防いでいるのだと結論づけ、ジェンナーは、自分で考えた仮説を実践してみることにしました。ジェームス・フィリップスという男の子が実験台になりました。(ジェームスはジェンナーの息子ではなく、ジェンナー家の使用人の息子です)ジェンナーは、まず、サラという乳搾りの女にできた水泡から液体を取り出しました。サラが、ブラッサムという名の牛の乳を搾っているとき、明らかに牛痘と思われる水疱が手にできました。ジェンナーは取り出した液体の一部をジェームス少年に“接種”します。こうしたやり方をジェンナーは何日間もかけて、何度も繰り返し、接種する量を徐々に増やしていきました。そして細心の注意を払って、ついに天然痘を少年に接種したのです。その後ジェンナーは研究を続け、その成果を論文にまとめ1797年、英国王立協会の機関誌「Philosophical Transactions」に投稿しました。協会はこの論文を不完全なものと見なし、コメントも付けずにつき返しました。ジェンナーはその後、2件の症例を追加して「Inquiry」を自主出版しました。さらに「Further Obserbation」と題する追補を、1798年と1799年にそれぞれ発表しました。3回目の追補は「ワクチンの接種の起源」というテーマで 1801年に発表されました。 「Inquiry」は医学や生物学に多大な貢献をしました。予防医学ならびに免疫学の基礎となり炭疽菌に対する免疫研究の道を切り開きました。それから75年後に狂犬病を研究したパスツール、結核菌のコッホらに受け継がれます。 

 「Inquiry」を出版してから3年後、天然痘ワクチンは世界中で使用されるようになりました。ジェンナーの報告によれば、1801年までにワクチン接種を受けた人はイギリスだけでも10万人に達しました。ワクチンはさらに、各イギリス植民地、フランス、スペイン、アメリカ、カナダなどにも紹介されました。 こうした成功にもかかわらず、ワクチン接種を快く思わない人もいました。彼らの多くは、ワクチン接種は人痘接種法の一種に過ぎないと思っていました。ワクチン効果が疑われるようになった理由の1つとして、接種法の不徹底があります。例えば、牛痘とは無関係の、牛の乳房からでてきた浸出液を牛痘と勘違いして使用した医師がいたのです。こうした浸出液を使った医師たちは、天然痘予防は失敗だったと報告し、失敗は牛痘のせいにしました。

 自分の発見を報告するためにロンドンを訪れたジェンナーは自尊心を大いに傷つけられます。しかしジェンナーの発見を否定できる者はいなかったので、最終的には彼の成果は認められることになります。それは世界を一変した世紀の発見でした。

 ジェンナーの種痘法は大きな成功を収めました。1840年、当時のイギリス政府が、ジェンナー以外の方法を禁止するほど効果的だったのです。 ジェンナーは、種痘法の特許をとることはしませんでした。なぜなら、特許をとるとワクチンが高価なものになり、多くの人々に行き届かないと考えたからです。それはジェンナーからの贈り物だったのです。現在、彼の故郷の町には、小さな博物館が建っています。そこは、大きな脚光を浴びたり、都会生活を送ることをあえて避けた男にとって、ふさわしい場所です。博物館には、牛のブラッサムの角も飾られています。ワクチンという言葉はラテン語で牛を意味する“vacca” から来ています。ジェンナーの研究に協力した牛のブラッサムと、乳搾りの女サラに敬意を表してのことです。もっと立派なジェンナーの像はロンドンのハイドパークの奥に、ひっそりと立っています。

 1980年、WHO(世界保健機関)は天然痘撲滅を宣言しました。
参考文献
 (1) 医学の10大発見(ニュートンプレス)鈴木 巴訳
 (2) 種痘法の発見(大日本出版株式会社)長野、佐伯 訳
 (3) ジェンナーの贈り物(菜根出版)加藤四郎著

(執筆: BD 大川三郎)