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ジョン・スノー

先人たちの足跡
John Snow 医師。疫学的手法を導入しコレラの原因、感染経路を初めて特定する。
麻酔法の確立に貢献し、外科手術時の身体的苦痛から人々を解放する。

足跡

1813年3月15日、イギリスのヨークシャーで労働者の長男として誕生する(男6人、女3人の9人兄弟)
1827年ニューカッスル・アポン・タインで外科医の徒弟となる。
1836年〜1843年ロンドンのハンテリアン医学校で正式な医学教育を受け、ロンドン大学で医学士を取得。
1853年ヴィクトリア女王にクロロホルムを処方。無痛分娩(8 人目の子供)を行う。
1854年初秋にロンドンで発生のコレラ禍に遭遇。
1858年6月9日、脳卒中発作を起こし、16 日に自宅で死亡。
1813年、イギリスのヨークシャーで労働者の息子として誕生したスノーは、家柄重視の当時の常識に反して医師を志し、14才の時ニューカッスル・アポン・タインで外科医の徒弟となりました。徒弟として研鑽を積み、更に医学校で正式な医学教育を受け、30才で学士号を取得しました。

エーテル、クロロフォルムとの出会い

適切な麻酔技術の無い当時の外科手術は、極めて身体的苦痛の伴う野蛮と言っても良いものでした。いかにして苦痛を減らすかが患者のみならず、医師にとっても大きな課題となっていましたが、その方法はなかなか見つかりませんでした。
1846年、アメリカの歯科医ウイリアム・モートンがエーテルガスを使用した麻酔の、初めての公開治療を行い、その効果の素晴らしさは直ぐにイギリスへ伝わりました。
同年末、ロンドンの歯科医ジェームズ・ロビンソンの行った患者へのエーテル処置に、スノーも立会って完璧な抜歯の実演を見守りました。効果を確認したスノーは、まだ定まっていなかったエーテルの処方を自ら改良し、更に、クロロフォルムの処方に関する検討を行いました。
そして1853年、8人目の子供を出産するヴィクトリア女王にクロロフォルムを処方し、世界で最初の無痛分娩を、女王の満足の意を以って終了させました。

1854 年の大疫病コレラ

コレラ菌写真
ロンドンのソーホー地区で8 月末に発生したコレラは、最初の3日間でブロード・ストリート周辺に127 人の死者を出しました。そして9月10日までに500名が死亡し、死亡率は、ソーホー地区全体の12.8%に達しました。このコレラ禍は、終息する9月末までに616名の死者を出す大疫病となりました。
この災禍、大疫病に遭遇したスノーは、地区住民の事情に詳しい副牧師ヘンリー・ホワイトヘッドと共に徹底した調査を行い、ブロード・ストリートにあるポンプ井戸の水が“コレラを起こす何か”を含んでいる、と結論付けました。
大疫病コレラをこれ以上拡大させないためには、この井戸ポンプの使用を即刻止める以外ないと考え、渋る公衆衛生局にポンプの柄の撤去を認めさせました。柄の撤去後、スノーの予想した通り発病者、死者は急速に減少し、9月末までに終息を観るに至りました。
ところで当時のロンドンは、社会基盤の整わないまま急速に人口が増加し、250万人がひしめき合っていました。人が増えて困るのは排泄物の処理ですが、これを地下室やため池に溜め置くなど、他の日常活動も相まって、悪臭の満ちた都市となっていました。更に1848年の“ 不快除去及び伝染病予防法” 施行後は不快なものは全て川に流し、環境は破滅的と言ってよいほど悪化しました。
このような状況の中、病気の元は空気を伝わる悪臭「瘴気」にあるとする説(miasma theory)が信じられていました。1854年の大疫病コレラも悪臭、即ち瘴気が元凶とされ、特に悪臭の立ち込める最下層に位置する人々の住む地区に患者が多いと、まことしやかに伝えられる有様でした。
そこで、瘴気説にそもそも疑問を持っていたスノーは丹念な調査を行って詳細な住民情報を集め、得られた情報を科学的に分析した結果、原因であるブロード・ストリートの井戸ポンプの特定に至りました。
分析はボロノイ図*を用いた手法で行われましたが、これが正に、現在我々が疫学的手法と呼ぶものの一つで、この手法によって、この井戸ポンプ、即ち水の使用者を中心に患者の広がりのあったことが明らかとなりました。言い換えると、空間的(距離的)のみならず、時間的にもこの井戸ポンプに近い住民が患者の多くを占めたと結論付け、悪臭(瘴気)は無関係であることを疫学的(統計学的)に証明した訳です。
誠実で勤勉な医師スノーは統合的な思想家でもあり、全体を俯瞰する鳥瞰的視点を併せ持っていました。鳥瞰的視点を持っていたので、特定の事象にのみ捉われることなく、全体を俯瞰して情報を集めることができました。また瘴気説と言うパラダイムにも捉われることが無かったので、短時間で原因を特定できたと考えられます。
1854年ロンドンでの大疫病は、ブロード・ストリートの井戸ポンプ近くに住んでいて、最初の患者(指針症例)であった生後5ヶ月の女児から広がったとされています。
下痢で苦しむこの女児の、オムツの洗濯に使用した水を母親が井戸ポンプ近くに捨てたことが感染拡大の発端となりました。そして女児の父親も終息近い9月19日に亡くなり、40番地で始まった大疫病は40番地で終わったと語られています。


参照:*付録CD
(文責:日本BD 武沢敏行)