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秦 佐八郎

先人たちの足跡
2014年8月
梅毒の特効薬サルバルサンを発見した秦佐八郎

足跡

1873年3月23日 島根県美濃郡都茂村の山根道恭の八男として生まれる。
1887年都茂村の医家・秦徳太の養子となる。
1897年岡山県立病院助手となって荒木寅三郎博士に師事。
1898年大日本私立衛生会経営の伝染病研究所へ入所、ペスト研究に着手。
1907年ドイツ留学し、コッホ研究所に入所。
1910年エールリッヒ博士とともにサルバルサンを発見。
1920年慶應義塾大学医学部教授に就任。
1938年11月22日 脳軟化症のため死去、享年65歳。

岡山県立病院から始まる医家の道

 細菌学者・秦佐八郎は、1873年、西郷隆盛に同調する政府高官や軍人など約600名が辞職した“明治6年の政変”で内戦勃発の不安漂う時代に、島根県美濃郡都茂村(現在の益田市美都町)の酒造家で豪農の山根家に8男として生まれました。
 素封家とはいえ、山根家では多くの子らに高等教育を施すのは難しく、佐八郎は14歳で医家・秦徳太の養子に入ります。代々の漢方医の秦家は学力に秀でた佐八郎を進学させる約束で迎えました。佐八郎は18歳になると中国山脈を越えた岡山の第三高等中学校医学部(現在の岡山大学医学部)に入学し、勉学に励みます。1895年に養父の徳太が他界し、佐八郎は22歳で徳太の長女チヨと結婚、11月には同医学部を卒業し、1年間の兵役を経て、岡山県立病院の助手になります。そこで、後に鼠咬症スピロヘーターを分離、命名した荒木寅三郎教授のもとで医化学を学びます。これが佐八郎の医家としての出発となりました。
 当時、医学の最先端はコッホやパスツールに代表される細菌学で、北里柴三郎はそのコッホのもとで破傷風の血清療法を発明、世界的な名声を博し、東京に伝染病研究所を開設しました。荒木教授は佐八郎を北里に推薦し、1898年、佐八郎は東京の伝染病研究所に入所します。佐八郎はそこで細菌学の研究に励み、翌年、わが国で初めてペストが流行した際には和歌山県に赴き、防疫に当たります。1904年に日露戦争が勃発、翌年、終結を迎えると広島の宇品港外・似島検疫所において帰還兵の防疫を行います。この時に佐八郎が考案した真空ホルマリン消毒法は、陸軍式消毒法として広くドイツなど諸外国でも使用されました。

エールリッヒのもとで特効薬“サルバルサン”を発見

 1907年に北里の支援でベルリンに留学した佐八郎は、ロベルト・コッホ研究所で免疫を研究し、その後、モアビット市立病院に転じていたところ、当時、化学療法の先駆者だったパウル・エールリッヒ博士が病原微生物の研究者を探していて、ベルリンの万国衛生学会の席で佐八郎が危険極まりないペスト菌を8年も研究していたことを聞くに及び、自らが所長を務めるフランクフルトの国立実験治療研究所に迎え入れます。エールリッヒは、微生物には親和性を示すが人体細胞には親和性のない毒物があり、そのように微生物を殺し、人体に無害な“魔法の弾丸” を開発しようと、当時、発見されて間もない梅毒のスペロヘーター・パリーダ(学名・トレポネマ・パリドウム)にねらいを定めます。
 エールリッヒのもとで佐八郎は梅毒のスペロヘーターを使って実験を重ね、イタリアの大学にあったウサギの陰嚢で継代できる梅毒の種で実験を行います。そして、606 番目の砒素化合物をウサギの耳介静脈に注射すると陰嚢の潰瘍も治りかけ、梅毒のスペロヘーターが消えました。この動物実験で成果を上げた新薬をヒトで使う場合の最適容量を調べる必要が生じますが、これにはエーリッヒ研究所の助手2人が淡黄色の粉末結晶を水に溶かし、自らの身体に注射して、効果を確かめました。これが製剤番号606号のジオキシ・ジアミド・アルゼノベンゾール、通称“ サルバルサン(Salvarsan)”と呼ばれる梅毒の特効薬です。その名称は、救済(salvation) と砒素(arsenic)に因んで名づけられました。
 この輝かしい成果をエールリッヒはウィスバーデンの学会において秦佐八郎との連名で発表します。しかし、砒素薬剤のために副作用が強く、もう少し副作用のない新薬を目指して改良を重ね、914番目の試薬“ネオ・サルバルサン” の製造に成功します。この製剤は1943年ペニシリンがこれに取って代わるまで、梅毒に苦しむ世界中の患者に福音をもたらしました。

同種のスペロヘーターで起こる皮膚病にも効果絶大

 佐八郎は1910年8月、帰国しますが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツからサルバルサンの輸入が途絶えると鈴木梅太郎らが合成したサルバルサンの生物学的性能検査を担当、これはドイツ製より品質に優れ、ドイツから輸入できない諸外国も日本に期待して、積極的に日本製を導入するようになりました。また、サルバルサンは梅毒と同種のスペロヘーターによって発症する熱帯地方の皮膚病のフランベジアにも効果が絶大でした。後年、佐八郎がジャワで開催された極東熱帯病学会の会期中、フランベジアが風土病となっていたバンデグランという町を訪れると町民から大歓迎を受けます。サルバルサンによる治療でフランベジアが一掃され、佐八郎は町を救った恩人と崇められ、秦の来訪を記念して町をハタ町と呼んだといいます。
 1914年に伝染病研究所が内務省から文部省に移管され、それに怒った北里が辞任して北里研究所を新設すると、佐八郎もそこに移ります。そして、1917年、慶應義塾大学に医学部が新設されたため佐八郎は教授に迎えられ、細菌学と免疫学を教えます。以後、在位20年、病没の年まで勤め上げました。
(文責:長 茂)


参考文献:秦八千代著『秦佐八郎傳』、鈴木昶著『日本医家列伝』、福田眞人・鈴木則子編著『日本梅毒史の研究』思文閣出版、モートン・マイヤーズ著『セレンディピティと近代医学』中央公論新社